昭和43年3月8日 朝の御理解
「信心は親に孝行するも同じ事ぞよ」とおっしゃっとられる。というて、親の方から孝行せよ、親の方からあああってくれ、こうあってくれというものでもなからなければ、また、言えるものでもない。そりゃあやっぱり、子供の側が気付かしてもらって、ここん所をこういうふうに改めて行ったら、親が喜ぶだろうと。ここんところをこういうふうに実行したら、神様が喜んで下さるだろうという様に、子供の方から気付かしてもらう事。ああ、こんなに喜ばれる事ならば早よう、まあこういう素晴らしい事どうして気付かなかっただろうかいう様な事がありますね。今日もひとつ、私共神様と私共の関係においても同じ事。御教えを、ま、頂きましてから、ふと気付かして頂く事、いわゆるそれを発心、発心。それを神様が喜んで下さると、例えば思える事を発心した時の心の喜びというものは、何に変えようもない。私は今朝、ひとつ気付かして頂く事がある。もう何かしらんけれども、嬉しゅうて、嬉しゅうてたまらん。おそらく神様が嬉しい。嬉しいと思うて下さっておる事であろうとこう思う。こうせにゃならんぞ、こうせろと言われてするんじゃなくて、私共が気付かせてもらうという事ね。そこから発心させてもらう。いわゆる実行に移させて頂くというね。それがそのまま「信心とは親に孝行するも同じ事。神は我が本体の親。信心は親に孝行するも同じ事ぞや」とこういう。もう本当に有難い。有難いというよりも嬉しい。それがいよいよ実行できる。こりゃあ、神様もお喜び。こっちも嬉しい。そのまま神様のお喜びと私は思うね。そこで皆さんがやはり常にですね、どういう様なあり方にならせて頂いたら、神様が喜んで頂くであろうかとね。どういう自分になったら、親が喜ぶじゃろうか、親が喜ぶじゃろかという思いをね、思い続けとかなければならん。そこに私、まあ、こうやって人がここで助かられる様になってから、まあ、十八年ですか、一八年分【 】初めてその事わからせて、わからせて頂いた事がある。いやあ、大変なね、ですから「神様、これが素晴らしい事を、なぜ神様あなたの方から教えて下さらなかったのですか」と言いたいごとある。けれども神様の方から教えて下さってからではですね、値打ちがない、ね。こちらが気付かしてもらう。はあ、これが気付かしてもらうという事がです、親の喜びである、ね。それを実行さして頂くという事が発心なんですよね。「信心とは親に孝行するも同じ事ぞや」もう本当にこちらのめぐりが大きいもんだから、いや神様が暗に教えて下さりよったんじゃろうけれども、それを素直に受け入れる心がなかった、ね。本当に素直に受け入れる心がなかったんだと。だんだんめぐりのお取り払いを頂いて、だんだんこれが正常な本当の事になって来たら、それが素直にスルスルッと入って来るや、それを、その気付かしてもらう。それを本気で行じようという気にならしてもらう、ね。そこからまた発心、いっきの信心。思い付かせてもらう。発心する。その事がいっき、一つの事が起こって来る、ね。はあ、嬉しいもう本当に嬉しい事である。こりゃあ、おそらく合楽の信心がまた変わるだろう、も、そんな気持ちがある。
やはり、そのめいめいが持っておる、その根性というやはりめぐりがある、ね。昨日、夕べ総代会でした。総代会でお話した。皆さん共鳴しながら聞かれておったんですけれども。昨日晩、おとといの晩、企画の方達が会合しておりましたから、終わるまで私と長女と茂雄さんの三人が、コタツの間でお茶を頂きながら、話をさして頂き、そういうふうな気持ちに、まあいつの間にかならせてもらったんだけれども、やっぱり【 】の中に、そういうものを持っておられるんだなあと、こりゃあ茂雄さんの事んですけれどもね。
先日、あの【 】が時期ですから、北九州の方が大変値段が高いっていうので、まああちらの【 】へ出されたんですね。その時にゃ出して来るだけで値段がわからん。そこで息子さんが、くにおさんが帰ってからまた改めてあちらへ【 】ところがあれだけ事を、あれだけ沢山持って行ってですね、それが九百円がたしかなかったちゅう事です。もう本当にのんな事があるらしいですよね。やはり。もうそんなら、もうガソリン代もない。もうバカんごたる。もう人にやった方がよかった。それでもう帰って来てからお母さんが、それまちかまえとる、ね。久子さんが「くにさん、どげな事じゃった」「それが【 】九百円がしかなかった」お母さんも【 】あれだけしたものをですね、それをその横で茂雄さん聞いておられてから、あの茂雄さんがくにおさんと久子さんに言うておられる事なんですよね、「お前達ちゃ何ちゅうこつか」というわけ「親先生にお取り次ぎ頂いて、お願いをして、そうしてお前北九州に出させて頂いたんじゃないか。高いからニコニコして来る。安いからぐらして帰って来る。神様のどういう御神意があるやらわからん。どういう様なおかげ下さっておるのかわからん。その事でまたどういう神様事が【 】下さっとるやらわからん。日頃の信心をお前どこへ持っていっとるか」って。私それを聞かして頂きよってですね、こりゃあもう教えられたからじゃないな。もう性根の中でそういうものがあるんだなというふうに感じたんですね。ところが果物でもですね、例えば苺なら苺の様に、そのままガブガブ頂ける様なものもある。バナナの様に一皮むかなきゃ食べられんものもある、ね。いや、それをまた煮たり焼いたりしなければ食べられないものもある。私めぐりってそんなもんじゃなかろうかと、ね。茂雄さんの方の様に、もう何かスッスッ。ほんに教祖の神様ちゅう方も、こういうおかげでなかったじゃろうかと。時々思う事があるんです【 】さんの話を聞きょうるとですね、だからこりゃもう根性、昨日の話じゃないけれども、とても教祖の神様というお方は私共が百年千年、いわゆる百回千回を生まれ変わったからとて、ああいう様な性分にはとても生まれて来れない程に素晴らしい方なんだ様にです、茂雄さん方の様な性根っていうものは、私共が十回二十回生まれ変わってからって、あげなふうになれんのじゃなかろうかと。いうならば、ね、皮を一皮むかなければ食べられんというものもありゃあ、そのまま食べられるものもある。煮たり焼いたりしなければ食べられない。味をつけなければ食べられないというものもある。さあそこで皆さん思わにゃあいかん。もう俺達、煮たり焼いたりせにゃあ食べられんとじゃろう、もうよそから味をつけてもらわなければ食べられんとじゃろう、ね。だから皆さん茂雄さんのまねができんからというて、決してがっかりするこたあいらん、ね。誰のまねができんからもうそれはそれなりなのだ、ね。けれども、これは誰でもが思わなければならない事はです、ね、例えば御理解によってわからして頂く事は、成程神は我が本体の親である、ね。天地の私共のいわば親である。天は父なり、地は母なりである、ね。ところがその天地に対する所の、ま、還元の生活、または天地が感動まします様な私達、いうなら親が喜んで下さる様な、神様が喜んで下さる様な私にならせて頂きたい、私にならせて頂きたい様な願いが、そこへなかならきゃあいけない。それで私が例えば十八年間もわからなければ、かからなければわからない事が出る、ね。ある人は一年間でわかる場合もありゃあ、半分でわかる人もある。いうなら私も不精進であったかというと、その事を思い続けて来た事である。願い続けて来た事でもある。それなのにわかってなかった。まあ気付かせて頂いたその喜び、ね。その嬉しさ、そのまま神様の嬉しさであり、神様の喜びでなくて何であろうかと、わたしゃあ、そういうふうに今朝から感じる。皆さんの心の中に切実に願い続けられる事。どういう様なあり方にならせて頂いたら、神様が喜んで下さるだろうかと。久子さんのあり方じゃあ神様は喜びなさらん。くにおさんの生き方では神様は喜びなさらん。なら茂雄さんの生き方なら、成程神様が喜びなさるじゃろう。けれどもそこにはめぐりの、やはり程度なんだ、ね。教えを頂いて一緒に聞いとった。それからまたその話ですけれども、そればってん、あのう、それをなんか二十キロづつ一山にするらしんですよね、そしてそれに値段がつくらしい「そりゃあ、お前一山の間違いじゃなか、どうもそうな気がする」「ほんにそうかもしれん。もう一ぺん電話してこうか」ってわけで、そのまた電話かけに行った。そしたら今度はニコニコして帰って来よる。それが九千円じゃったとニコニコ。九百円じゃグラッて。(笑)まあそれが人間ですよね。けれどもです、なら、茂雄さんの様なあり方になられたらです、どんなに楽しいであろうかと思うですね。けれども、こりゃあめぐりの相違なんですよ。だから、ああいう様な思い方が出来る様にならせて頂こう、という願いだけは、お互いが持ち続けなければいけないという事。願い続けなければ事。私が持っておる、もう嬉しい。十八年ぶりに、いうならば気付かして頂いた、ね。十八年以前はおかげ頂きたい、おかげ頂きたいですから、親に孝行しょうなんて、いっちょう考えとらん、ね。神様が喜んで下さる様な信心なんて考えておらん。どんどん儲けてから、どんどんお供えすりゃあ神様が喜んで下さる様に思うとる。けれども、なら、まあ十八年、二十年て精進この方でしょうね。これではいけん。今までの信心は間違ごうておった。そこで方向が変えられた。本気で信心を求めさしてもらう事になって、そぢて神様に喜んで頂けれる私、神様がどういう様なあり方にならせて頂いたら、お喜び頂けるであろうか。神様の御信用が頂けるであろうかという様な信心を、いうなら二十年近くも一生懸命二十年近く二十年以上かね、一生懸命さして頂いてから、今朝方初めてそれを気付かして頂いた。まあ、その嬉しさ喜びというものは変えられない程嬉しい、ね。神様が喜んで下さる。もうこっちあたりはほんな事が、まあ、煮たり焼いたりね、しなければ、まあ食べられない様な自分であるであろうとこう思うのですけれども、これはめいめいの性根の中にね、そういうめぐりをひとつ自覚してね、本気で、それでもやはり、方向を神様が喜んで頂けれる信心とは、親に孝行するも同じ事ぞや、という様な信心の方向づけがでけて、ね、親の喜ぶ姿がそのままね、私共の喜びに帰って来る様なおかげ、そういうおかげを頂きたいと思う。神は我が本体の親ぞ、ね。そこをひとつまず、私共かりかいしなければならない。成程だから、実感が伴わなくても、成程天地の御恩恵なしには、自分達の今日はあり得ないのだという事。なら、お話の内容とわからしてもらう。ほんならその天地の心というかね、それを、まあいうなら法則ともいう、心理ともいう、だからその法則に従ごうて行く生活こそが人間の幸せであり、心理を追求して行くという事が、いよいよ人間を深いものに、いよいよ広いものに、いよいよ味わいのあるものに、本当の本当の事を求め続けて行くという生き方こそが、人間の本当の生き方なのだと、ね。そしてそこから生まれて来る本当の喜びに触れさして頂きながらね、おかげを頂いて行こう「神は我が本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じぞ」